今日考えたこと

得た知識や考えたことのメモをとるのが主目的です

微分方程式による物理法則表現と測定値に関する考察

例えば、

m x d²r/dt² = F

という物理法則がある。

この微分方程式ではrによって3次元空間のベクトルを表現しているので、1次元に簡略化して、

m x d²X/dt² = F

という微分方程式に変更し、これを以下の考察対象とする。

さて、d²X/dt²という微分に目を向けてみると、Xとtという変数が連続である、つまり実数を変域とする変数である、という暗黙の前提の帰結として微分可能となる、ことが含意されていることに気づく。

 ここで、実数とは無限桁の小数を含む数体系である。

ゆえに、上記微分方程式には、無限桁の小数について成り立つということが、暗黙の前提として付随している。

いっぽう、科学であることの要件として、実験による検証がある。実験には測定がつきものである。できるだけ正確な距離や時間を測定した結果として得られる測定値は、たかだか10桁の小数点以下の桁数までになる、というのが既存技術の限界と常識的には考えられる。

10桁の精度の測定値、これは有限桁の小数であるのでつまりは「有理数」であるが、と微分方程式で扱われる「実数」、つまり無限桁の小数、とを比べて、どういう検証が行われて、物理法則としての微分方程式が正しいと判断することができるのだろうか?

論理的に考える限り、こんな結論に至る。

ゆえに、以下のどちらかが正しいことになる。

1.上記の論理的推論のどこかに間違いがある

2.物理学は、精密な検証が不可能な仮説の集合としての体系である

座標の原点

デカルト座標系を使用すると、空間内の距離を扱うのに便利になる気がする。

しかし、原点をどこに取るか、についてよく考えてみると、厳密に原点を決める手段は我々には無いので、原点と目標物との間の距離の厳密な測定は不可能である。
そもそも、例えばグリニッジ天文台のどこそこを原点にしようと決めても、原点を厳密に物理的世界の中で定めることは、実数による座標系の適用を前提とするので不可能であることがわかる。

点という概念を、我々の暮らしている物理的な世界に厳密に運用することは、原理的に不可能であり、類似の考えを進めると時間についても同じことが言える。

幾何学と力学の比較 続き

幾何学が常に正しいように見えるのはなぜか、と考えてみた結果、我々の身近にある空間の安定性が高いため、だと結論した。近くに非常に重い物体がない限り、ユークリッド幾何学は極めて高い精度で現実と合致してしまうので、有用性が高く感じられてしまう。地球よりもずっと重い物体は我々の身近にはなく、簡単に行ったり持ってきたりすることもできない。

古典力学が、ユークリッド幾何学に比べて適用範囲が小さいように見えるのは、現代では比較的容易に実現可能となっている、物体の速度増加や物体サイズの微細化を実現させると、日常感覚から導き出された質量や距離や時間という仮想概念の上に構築された公理体系による物体のふるまいの予測が、実際の物体のふるまいと合致しなくなるため、と考えることができる。

幾何学と力学の比較

幾何学では、点、線、面などが定義されるが、大きさや厚みが無い非現実的な対象であるので、現実世界にそのまま適用することはできず、長さ、広さ、角度などの幾何学で登場する値は、現実世界をモデル化した仮想世界においてはじめて対応物が見つかる。

力学には、力、質量、重さ、長さ、時間などが登場するが、これらは現実世界に存在する値であると考えがちであるが、よく見てみると仮想上の存在である。どれも正確な値を計測しようとしても決して得ることができない。強いて言ってみるならば、測定できた近似的な値を相対比較することは可能なものたちである。

つまり、物理学も幾何学も同じ穴の狢であり、人間が外界に対する自分の考えに基づいて事前定義した変数に基づく体系であり、その変数は仮想的な存在であるので、現実世界を正確に記述することは原理的に不可能な体系であると考えられる。

潜在自然植生

最近、潜在自然植生という言葉を知った。

その眼で眺めると、「となりのトトロ」は、大事な場所として描かれている神社の巨木がクスノキということで、潜在自然植生の考え方では日本の気候に最適な植物ではないらしいので、物語の背骨がちょっとぐらついているような気がしている。

あるいは、トトロは外来生物である、という伏線があるのかもしれないが、それはそれで違う気がする。

数学的対象と自然界の存在物の違い

落体の運動を記述する際に、距離と時間の関係式が当たり前のように提示される。でも、距離についてよく考えると、ある物体のどこから、目標の物体や場所のどこまで、を距離とするのかを正確に決めることが不可能であること、がわかる。

幾何学においては、実数を前提に距離の値を論理的に正確に定義することが可能であるが、物理学が扱う自然界には幾何学に登場するような扱いやすい図形は一つも存在しない。我々の住む世界には、境界の曖昧な、幾何学的図形に似た存在物、しかない。

それなのに、物理学では、幾何学的図形があたかも自然界に普通に存在しているかのように見なされて、距離や時間などの大きさを数字で表現する座標を基礎として、解析学などに基づく関係式を駆使した理論体系が数百年に渡って構築されてきた。そこでは、事物の境界の曖昧さは考慮されていない。

このような物理学理論を使えば、物体の運動について高精度の予測が得られ実用的に便利なので、重宝されるのは理解できる。しかし、数学のような細部に至る厳密さ、に欠けた脇の甘い理論の独り歩きが、世間一般によって批判無しに受け入れられている状況はいかがなものだろうか。

自然という書物は数学の言葉で書かれてはいないだろう

物理学の法則は現象を近似的に予言できるが、現実の物体のふるまいを完全に記述しているわけではない。

現代物理の源流となる学者の1人であるガリレイの有名な言葉に、自然という書物は数学の言葉で書かれている、という意味のものがある。
数学の言葉で書かれている、ということは自動的に、距離や大きさや重さ、といった自然界における物体の属性が、数字で表される、ということになる。
確かに、日常的な距離や長さや重さは、数字で表すことにより扱いが便利になる。移動にかかる時間を算出したり、重さを手軽に見積もることができることで、日常生活における利便性は間違いなく大きい。

しかし、距離を例にとると数字は近似的にしか役に立たないとも言える。

落体の運動について考えてみよう。空中のある位置から鉄球を自然落下する実験を例にとると、鉄球が落下する距離は時間の自乗に比例し、gt²/2という数式で表されることが古典力学で示される。

では、落下する距離とはどことどこの間の距離かと言うと、物体の表面と地面の表面の間の距離と考えられる。

ところで、物体や地面の表面については、実はその正確な位置の決定に問題が存在する。物体の表面の原子レベルの構造を念頭に考えると、表面とは電子の雲がもくもくと湧き上がり並んでいる場所であり、どこまでが空間でどこからが電子の雲の始まりであるかを正確に区切ることはできないし、雲も静止しているわけではないらしいし、鉄球や地面を構成する物質は結晶としての格子構造をとるので、必然的に格子振動という現象が付随するため、表面の原子自体も振動しており、表面の高さは絶えず変動していると考えられるので、実用的には、高さの数値のある桁数で切って表面の位置とみなすこととなる。

つまり、実用的な桁数で切って自然界の距離を数字で表した数値をもとに、数式を使って自然界の法則を記述することは近似的には可能だが、桁数がある程度大きくなると数字で表すことに意味がなくなってしまう。

そのうえ、時間や距離の測定には必ず測定誤差が存在するので、距離を数字で表すことにはさらなる問題が存在し、原理的に正確な距離は出せない。時間についても同様のことが言える。

以上が、自然界の現象に数学を使用する際の限界であり、仮説を記述する道具として使うのであれば許容できても、数学という言葉で記述される「自然」とは、自然という書物のあらすじに過ぎない、と言うことができる。
わかりやすく言い換えると、今、物理法則といわれているものは、使われている変数をある程度の桁数の数字に制限しないと、意味を失ってしまうような近似的な法則である、となる。

自然という書物は数学の言葉で書かれているわけではなく、精度追及の捨象を暗黙の前提とした「数学の言葉」で読み解くうちに、自然という書物がどうも数字では書かれていないことがわかりつつある、という表現のほうが現状を言い当てていると思う。