数学的対象と自然界の存在物の違い
落体の運動を記述する際に、距離と時間の関係式が当たり前のように提示される。でも、距離についてよく考えると、ある物体のどこから、目標の物体や場所のどこまで、を距離とするのかを正確に決めることが不可能であること、がわかる。
幾何学においては、実数を前提に距離の値を論理的に正確に定義することが可能であるが、物理学が扱う自然界には幾何学に登場するような扱いやすい図形は一つも存在しない。我々の住む世界には、境界の曖昧な、幾何学的図形に似た存在物、しかない。
それなのに、物理学では、幾何学的図形があたかも自然界に普通に存在しているかのように見なされて、距離や時間などの大きさを数字で表現する座標を基礎として、解析学などに基づく関係式を駆使した理論体系が数百年に渡って構築されてきた。そこでは、事物の境界の曖昧さは考慮されていない。
このような物理学理論を使えば、物体の運動について高精度の予測が得られ実用的に便利なので、重宝されるのは理解できる。しかし、数学のような細部に至る厳密さ、に欠けた脇の甘い理論の独り歩きが、世間一般によって批判無しに受け入れられている状況はいかがなものだろうか。
自然という書物は数学の言葉で書かれてはいないだろう
物理学の法則は現象を近似的に予言できるが、現実の物体のふるまいを完全に記述しているわけではない。
現代物理の源流となる学者の1人であるガリレイの有名な言葉に、自然という書物は数学の言葉で書かれている、という意味のものがある。
数学の言葉で書かれている、ということは自動的に、距離や大きさや重さ、といった自然界における物体の属性が、数字で表される、ということになる。
確かに、日常的な距離や長さや重さは、数字で表すことにより扱いが便利になる。移動にかかる時間を算出したり、重さを手軽に見積もることができることで、日常生活における利便性は間違いなく大きい。
しかし、距離を例にとると数字は近似的にしか役に立たないとも言える。
落体の運動について考えてみよう。空中のある位置から鉄球を自然落下する実験を例にとると、鉄球が落下する距離は時間の自乗に比例し、gt²/2という数式で表されることが古典力学で示される。
では、落下する距離とはどことどこの間の距離かと言うと、物体の表面と地面の表面の間の距離と考えられる。
ところで、物体や地面の表面については、実はその正確な位置の決定に問題が存在する。物体の表面の原子レベルの構造を念頭に考えると、表面とは電子の雲がもくもくと湧き上がり並んでいる場所であり、どこまでが空間でどこからが電子の雲の始まりであるかを正確に区切ることはできないし、雲も静止しているわけではないらしいし、鉄球や地面を構成する物質は結晶としての格子構造をとるので、必然的に格子振動という現象が付随するため、表面の原子自体も振動しており、表面の高さは絶えず変動していると考えられるので、実用的には、高さの数値のある桁数で切って表面の位置とみなすこととなる。
つまり、実用的な桁数で切って自然界の距離を数字で表した数値をもとに、数式を使って自然界の法則を記述することは近似的には可能だが、桁数がある程度大きくなると数字で表すことに意味がなくなってしまう。
そのうえ、時間や距離の測定には必ず測定誤差が存在するので、距離を数字で表すことにはさらなる問題が存在し、原理的に正確な距離は出せない。時間についても同様のことが言える。
以上が、自然界の現象に数学を使用する際の限界であり、仮説を記述する道具として使うのであれば許容できても、数学という言葉で記述される「自然」とは、自然という書物のあらすじに過ぎない、と言うことができる。
わかりやすく言い換えると、今、物理法則といわれているものは、使われている変数をある程度の桁数の数字に制限しないと、意味を失ってしまうような近似的な法則である、となる。
自然という書物は数学の言葉で書かれているわけではなく、精度追及の捨象を暗黙の前提とした「数学の言葉」で読み解くうちに、自然という書物がどうも数字では書かれていないことがわかりつつある、という表現のほうが現状を言い当てていると思う。
空間と座標
空間における位置は座標で表し、座標は実数値で表す、という記述が当たり前になっている。しかし、空間には、ちょっと考えてみるだけでも、反粒子を生み出す、光を始めとする電磁波の伝播を可能とする、などの潜在的微細構造を示唆する経験的事実があり、実数で表現される一様な連続体と見なせるような単純な対象でない可能性がある。
それでも、今のところ、実数の組合わせで空間上の位置を表わすことに反対する人はいないようだ。
それは、空間というよくわからないものを扱うために、空間内の距離の大きさが実数で表現されると仮定して数学的に取り扱い易い仕組みを採用したことが、実用的にうまくいっているので今も継続しているということ、を意味すると考えられる。つまり、矛盾が出ない限り仮説を維持する、という物理学の慣行が背景にあると考えれば、理解はできる。
比較すると、ユークリッド幾何学は、人間の思考の中で点や線や面や立体というものを定義し、それらの間の性質を点や線や面の定義や公理から演繹していくという構造になっており、物理学のように得体の知れないものを相手にするための暗黙の仮定を採用する縛りは無いので、理論体系としてはより明快だ。
ユークリッド幾何学を数学の代表とすれば、一般に、数学と物理学は違う前提から出発している。
数学には、人間の思考の中の対象を探求することはできても、自然界を探究することはできない。
物理学には、座標の考え方からもわかるように、人間による仮定が幾重にも重なった暗黙の前提が存在しているので、どこまで精密さを追及しても自然界の真相が見えてこない構造があるため、人類による探究には回避不可能な壁があるだろう。ということは、いつまで経っても真相にはたどり着けないということになるに違いない。
このような視点から物理学を観察すると、真相にたどり着くことが最優先課題ではない、という指針に従って探究することが生産的である、という暗黙の指導原理の存在が感じられる。
深慮遠謀への道すじ
自然の数学化という軽慮浅謀に対する深慮遠謀は、どうあるべきか?
箱根八里
「箱根八里」で使用されている単語で、2回以上出てくる単語は以下の通り。
山:3回
関:2回
谷:2回
天下:2回
夫:2回
武士:2回
ここから推察できるのは、この歌は、かつての武士の時代を箱根の山景色の中に詠み込むことで、明治時代も後半に入った時代において往時を偲ぶ題材としたのではないか、ということ。文明開化の速度は速く、武士の時代を懐かしく感じるようになったのは、意外に早かった、ということだと感じる。
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箱根の山は、天下の嶮
函谷關も ものならず
萬丈の山、千仞の谷
前に聳へ、後方にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
昼猶闇き杉の並木
羊腸の小徑は苔滑らか
一夫關に當るや、萬夫も開くなし
天下に旅する剛氣の武士
大刀腰に足駄がけ
八里の嵒根踏みならす、
かくこそありしか、往時の武士
積分に登場する無限
電磁気学で、三次元の座標軸上に分布する電磁場の積分を、無限遠点まで行う場合がある。
しかし、宇宙空間は無限に大きくはないと思われるので、この積分計算には問題がある。
実際に計算される値は、小数点以下の数値が無限桁まで追加されていくイメージとして理解すれば、測定限界や誤差に含まれる差分とできるので、問題にはならないようだが釈然とはしない。
それとは逆に、力学の運動方程式に多項式展開を適用する場合は、低次の項だけに省略して、無限に続く高次の項は省略することがよくある。
双方とも、計算簡易化のための無限を要領よく使った近似法だが、無限の利用と無限の回避、という違いがある。
積分の場合は実数の無限を利用しており、多項式の無限は整数の無限を避けている、という観点の差があるので、別々の無限の話と考えるべきかどうか。。。。