度重なる近似について
物理法則はすべて仮説、したがって法則の表現としての微分方程式は、必然的に近似式という姿をとって、法則という名の仮説を表現している。
さて、物理学では、微分方程式の解を求める際に、与えられた関数の式を多項式展開した数式において、高次の項の値は小さいので無視できるとして省略し、低次の項だけの数式によって近似することがよく行われる。
そこでは、近似式としての力学法則の表現である微分方程式を、その高次項を省いて簡素化した微分方程式に変形した上で解を導く、という2度の近似を経た結果としての解が、現象を記述する数式として提示される。
典型的なのが、力学の教科書に必ず載っている、近似解による振り子の等時性の説明。振り子の等時性が、ニュートンの運動方程式の近似解により説明できる、とされる。
もともと力学的現象の近似的記述である運動方程式の、近似解による予測値と、測定誤差を常に含む近似値である観測値と、の比較により、振り子の等時性という性質が、運動方程式の近似解として得られた数式で説明できる、という筋道には、近似の多用による現象からの乖離の可能性があり、適正な現象の解明とするには根拠に乏しい感じを受ける。
もっとも、一般的に物理学の研究者にとっては、厳密解にこだわって現象を高い精度で理解することよりも、多重近似解を以って実用的な現象の予測方法を獲得する方が大事な作業なのである、と想定すれば理解は可能。
三四郎のあらすじ
1.九州から上京する鉄道車両中の出来事。途中、名古屋で一泊した際の出来事。
名古屋から乗り合わせた老人(広田先生)との対話。
2.実家の知り合いの親戚である野々宮を、帝国大学理科大学の研究室に訪ねる。次いで大学構内池端で休憩中に、美禰子と出会う。
3.大学の講義が始まり与次郎と出会う。大学生活の様々な出来事を体験していく。野々宮の家で留守番中に起きた鉄道自殺で若い女性の死体を見る機会を得る。野々宮の妹、よし子、の入院先に届け物をしたあと、病院の廊下で美禰子と再会する。
4. 与次郎を介して広田先生と再会。与次郎を手伝って広田先生の引越しを手伝うことになり、引越先に掃除に行き同じく手伝いに来た美禰子と再会。一緒に掃除し距離が縮まる中、与次郎、広田先生、野々宮さんが合流する。
5. 野々宮さんの家を訪ねてよし子と会話する。団子坂に菊人形を見に、美禰子、野々宮さん、広田先生、よし子と同行する。皆とはぐれた美禰子に合流し、会場を出て田端の小川のほとりで休憩し対話。自分のことをストレイシープと言う美禰子の真意を図りかねる。
6. 与次郎の広田先生賛辞の論文を読む。美禰子から2頭のストレイシープを描いた絵はがきを受け取り、眺めて楽しむ。同級生の懇親会に出席してさまざまな学生の演説を聞く。陸上競技会を見に行き、美禰子とよし子を見つけて遠くからしばらく眺めて様子を伺い、二人に合流する。美禰子から絵はがきへの返事が無いことをなじられる。美禰子が、野々宮さんに肩入れしていることが伝わってくる。
7. 広田先生の家を訪ね、結婚についての考えについて対話する。次いで訪ねてきた画家の原口と広田先生の会話を横で聞く。帰りに蕎麦屋で一高生が与次郎の論文の話をするのを聞く。帰宅して母からの手紙を読む。
8. 美禰子の家に、与次郎に貸したお金を受け取りに行く。一緒に散歩し、銀行でお金をおろして受け取り上野に美術鑑賞に行く。美術館で原口と野々宮に逢う。三四郎と一緒にいるところを野々宮にあてつける美禰子に困惑する。
9. 精養軒の会に出席して、原口や広田先生の話を聞く。与次郎に貸したお金の穴埋めを実家に頼むと、野々宮さん宛にお金を送られ取りに行くことになる。野々宮さんの下宿で話をする。
10. 原口の家を訪ねて、美禰子をモデルに描いている様子を見学。帰りに美禰子と一緒に歩く。借りた金を返す話を皮切りに美禰子と対話するが、要領を得ぬまま見知らぬ紳士が美禰子を迎えに車で来ているのに出会い、そこで美禰子と別れる。
11. 与次郎の論文が広田先生に迷惑をかけてしまう。与次郎が広田先生に謝罪した後で、三四郎も広田先生を訪ねて長い対話をする。広田先生が気に入った一女性の話、母が父と別の男性との関係で生んだ男、の話を聞く。
12. 演芸会に広田先生を誘うが、会場迄しか来てくれず一人で席に着く。会場には野々宮さん、よし子、美禰子が一緒にいるのを遠くに見かけるが混んでいるので合流せず、ハムレットの上演を鑑賞する。閉幕後、美禰子とよし子が一度見かけた紳士と話しているのを見て、そのまま帰宅し数日インフルエンザで寝込む。与次郎やよし子が見舞いに来る。よし子から美禰子が結婚することを聞き、美禰子が教会から出て来たところで対話する。お金を返し、美禰子が結婚することを直接確認する。
13. 原口の描いた森の女という絵が展示会に並ぶ。美禰子は結婚した夫と見に来て、原口にいい作品だと夫婦で礼を言う。三四郎は、広田先生、野々宮さん、与次郎と見に行く。絵を見てから難しい顔をして腰掛に座っている三四郎は、与次郎に問われ、絵の題名が良くないと答える。どういう名前が良いかと問われると、ストレイシープと口の中で繰り返す。
質量の非線型性
素粒子であるアップクォークとダウンクォークの合計3個の組合せにより陽子や中性子が形成されるという仮説があるが、このクォークの質量3個分の和と比べて、陽子や中性子の質量はかなり大きいと言われている。
同様に、陽子と中性子の組合せで形成される原子核の質量は、陽子と中性子の質量の和より小さいと言われている。
つまり、物質からその質量という測定量への写像は、線型性を満たさないと思われる。
言葉を変えると、日常的感覚により質量すなわち地上における重さの測定値が線型性を満たす、と思っているのは我々の思い込みである。すなわち、量子力学的な世界においては、あるいは元来、質量の測定値に線型性はないのであり、日常的な世界で成立するように見える自然界の振る舞いは、我々の思い込みである、ということも言えそうである。
質量が線型性を満たさないとして、では、空間や時間についてはどうだろうか?
線型性とは、我々の日常世界に対する思い込みによる単純化、と考えるべきものかもしれない。
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線形変換とは以下の条件を満たすような写像fを指す。
f(x+y) = f(x) + f(y)
f(cx) = cf(x)
上文では、xやyという物体の質量の測定結果を得る写像を、fとした。
数学と力学の関係について
時間とは、人間が観測した事物のうち規則的に繰り返すと見なされた事象を管理するために発明された、空間に類似した別種の座標軸と考えれば、わかりやすい。
当初は、現代科学でいうところの地球の自転と公転により規則的に生成されるように見える日と年が定義・常用化されたと思われる。次いで、それらを細分化した時、分、秒が定義され、今では特殊な環境に置かれたセシウム原子の規則的とみなされる振動を元に時間の目盛りが厳密に定義されている。以上から、時間を記述する道具として、数学の親和性は高いと思われる。
同じように、空間についても、幾何学により研究されてきた経緯とも合わせて、均一な対象の管理を得意とする数学との親和性は高いと思われる。
ところが、質量についてはどうだろうか。「質量」は、もともと筋肉感覚からのアナロジーで生まれた概念と思われるが、果たして数学で記述することに問題はないのだろうか?あるいは、力学法則によって質量が定義されているので、本来の自然現象ではない何かを記述するために定義された道具である、というような考え方も可能である。
さらに考えを進めると、「質量」とは何であるか、という根本的な問題にたどり着き、そこでは、自然界には存在しない仮想量である、という考えが可能である。
「力」についても同様の考えが成り立つと思われる。
以上より、力学の数学的取り扱いの面から考察すれば、時間や空間は数学による取り扱いに対して親和性が高い。一方、質量や力は、筋肉感覚の抽象から生まれ、数学的表現により定義された力学法則により算出可能な数量をその大きさとして便宜的に付与された仮象、と考えれば力学法則に対する論理一貫性のある理解が可能となる。
質量や力は、数学を使って時間、空間との関係で定義されるものであり、人間の感覚で直接感じられる事物とは違う世界に属する事物である、と考えるのが適切であろう。
感覚で直接感じられない、という性質は、時間にも当てはまる。
時間は恣意的に選択された自然現象を介して間接的に感覚できる事物である。
空間は、視覚で直接得られた感覚を抽象して得られた事物であるため、時間や質量や力のように複数段階を経て得られた事物とはレベルが違う、感覚的・直感的に理解できる事物であると考えられる。
そういうわけで、質量と力は、任意の空間の大きさにおいて、既定の周期的運動が一定回数繰り返される間に、観察された力学的自然現象を介して、数学的に定義される仮象物である、という理解が論理的には成り立つように思える。