今日考えたこと

得た知識や考えたことのメモをとるのが主目的です

史料における香西氏

建武四年(一三三七)六月二十日
讃岐守護細川顕氏、三野郡財田においての宮方蜂起の件につき、桑原左衛門五郎を派遣することを伝えるとともに、要害のことを相談し、共に軍忠を致すよう書下をもって香西彦三郎に命ずる。

正平六年(一三五一)十二月十五日
足利義詮、阿波守護細川頼春の注進により、香西彦九郎に対し、観応の擾乱に際しての四国における軍忠を賞する。

観応三年(一三五二)四月二十日
足利義詮、頼春の子頼有の注進により、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らの軍忠を賞する。

応永十九年(一四一三)
この年、香西入道(常建)、清水坂神護寺讃岐国香西郡坂田郷の所務代官職を年貢一七○貫文で請け負う。

応永二十一年(一四一四)七月二十九日
室町幕府、東寺領丹波国大山荘領家職の称光天皇即位段銭を京済となし、同国守護代香西豊前入道常建をして、地下に催促することを止めさせる。

同年十二月八日
管領細川満元、法楽和歌会を催し、百首及び三十首和歌を讃岐国頓證寺へ納める。百首和歌中に香西常建・同元資の詠歌あり。

同二十三年(一四一六)八月二十三日
丹波守護代香西入道常建、同国大山荘領家方の後小松上皇御所造営段銭を免除し、催促を止めることを三上三郎左衛門尉に命ずる。

同二十七年(一四二○)四月十九日
丹波守護細川満元、同国六人部・弓削・豊富・瓦屋南北各荘の守護役免除を守護代香西豊前入道常建に命ずる。

同二十九年(一四二二)三月二十七日
丹波守護代香西常建死去。

同三十二年(一四二五)十二月晦日
丹波守護細川満元、同国大山荘人夫役につき瓜持ち・炭持ち各々二人のほか、臨時人夫の催促を停止することを守護代香西豊前守元資に命ずる。翌年三月四日、元資、籾井民部に施行する。

同三十三年(一四二六)六月十三日
丹波守護代元資、守護満元の命により、祇園社領同国波々伯部保の諸公事停止を籾井民部へ命ずる。

同年七月二十日
丹波守護細川満元、将軍足利義持の命により、同国何鹿郡内漢部郷・幷に八田郷内上村を上杉安房守憲房の代官に渡付するよう守護代香西豊前守(元資)へ命ずる。

永享二年(一四三○)五月十二日
丹波守護代、法金剛院領同国主殿保の粽持ち人夫の催促を止めるよう籾井民部入道に命ずる。

同三年(一四三一)七月二十四日
香西元資将軍義教より失政を各められて、丹波守護代を罷免される。

同年九月六日
香西豊前入道常慶(元資)、清水坂神護寺より寺領讃岐国坂田郷の年貢未進を訴えられる。この日、幕府は神護寺の主張を認め、「其の上、彼の常慶においては御折濫の間、旁以て御沙汰の限りにあらず」として、常慶の代官職を罷免し寺家の直務とする判決を下す。

嘉吉元年(一四四一)十月
守護料所讃岐国三野郡仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。

同年七月~同二年十月
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門所見。

同三年(一四四三)五月二十一日
摂津国住吉郡守護代香西五郎右衛門尉之長、万里少領路家領の御厨子所率分関所のうち同郡堺北荘分の警護を得分五分の一で請け負う。得分の半分は本所万里少路家が、残り半分は関所の半分を請け負った細川持之の後家がそれぞれ負担する。なお、同年六月一日の持之後家阿茶子書状案に「かうさいの五郎ゑもん」と見える。

文安四年(一四四七)正月十九日
興福寺大乗院門跡経覚、香西豊前入道に樽二荷等を贈る。

同年閏二月十六日
大乗院門跡経覚、香西五郎左衛門に樽一荷等を贈る。五郎左衛門は、同月二十一日、同門跡領越前国坪江郷を年貢六十五貫文で請け負う。

宝徳三年(一四五一)十二月六日
中原康富、鵬司家の使として和泉半国守護細川阿波守持久の守護代香西藤井の邸宅を訪問する。香西藤井は同年守護代に任命された。

寛正二年(一四六一)二月九日
醍醐寺報恩院隆済、細川持之の弟右馬頭持賢に対し、被官人香西平五元資の寺領讃岐国阿野郡陶保の押領を訴える。同四年八月十九日の報恩院雑掌申状案によれば、元資は持賢の斡旋により陶保の代官職を請け負っている。

同三年(一四六二)十二月
報恩院、再度、持賢に対し香西元資による陶保の押領を訴える。雑掌の申状案及び元資が持賢の被官秋庭・有岡両氏に宛てた九月二十七日付けの書状によれば、陶保代官職は元資の曾祖父香西豊前入道-香西豊前-美濃守-元資と受け継がれている。

同六年(一四六五)八月二十九日
摂津本郡守護細川勝元、同国多田荘内多田院領の即位段銭幷に要脚段銭を同院造営のため寄付し、催促を停止することを本郡奉行人香西主計允・寺町三郎左衛門尉に命ずる。

文明八年(一四七六)二月二十七日
摂津本郡守護代香西元忠、守護細川政元の命により、和泉国堺南荘と念仏寺領摂津国堺北荘につき段銭幷に臨時課役を免除することを小守護代本庄上野介に命ずる。

同十六年(一四八四)三月九日
細川政元、犬追物を行う。香西孫五郎・同又五郎ら参加する。

同十七・十八年(一四八五・六)二月二十五日
細川政元、北野社において法楽和歌会を催す。香西彦二郎長祐の詠歌あり。

同十八年(一四八六)七月二十五日
細川政元右京大夫の官途を許され、かつ管領に任ぜられた拝賀のため室町殿へ参る。香西又五郎ら五騎が伴衆を勤める。

同年十一月二十七日
細川九郎澄之、八条遍照院尭光の訴訟の事につき、香西五郎左衛門尉・清孫左衛門尉を両使として相国寺鹿苑院の蔭凉軒の軒主亀泉集証のもとへ遣わす。この件に関わって、五郎左衛門尉は翌月十四・十七両日も使者となっている。

長享元年(一四八七)十二月十一日
細川政元近江国鈎(曲)の陣へ参り、将軍足利義尚に謁する。香西五郎左衛門尉ら十五騎が、政元の伴衆を勤める。

同二年(一四八八)六月二十四日
足利義政臨席のもとに、相国寺普黄院において故足利義教の斎会を行う。細川政元、門役を奉仕する。香西五郎左術門尉、警護を勤める。

同年十月二十三日
香西五郎左衛門尉、細川政元の使として、相国寺崇寿院領和泉国堺南荘の代官職の件を蔭凉軒主に伝える。

同年十二月十三日
香西五郎左衛門尉、細川政元の使として、真境和尚を鹿苑院後住に定める件につき蔭凉軒主の意向を尋ねる。同月十七・二十四・二十七の各日条も同じ。

同三年(一四八九)正月二十日
細川政元、犬追物を行う。香西又六(元長)・牟礼次郎ら参加する。

同年七月三日
細川政国、飛鳥井雅親細川政元ら井に五山の僧侶と山城国禅晶院において詩歌会を行う。香西又六・牟礼次郎ら参加する。

同年八月十二日
明日の細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。

同年八月十三日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。

延徳二年(一四九○)五月十四日
細川政元の命により内衆物部神六が幕府奉公衆上野持人を討ち取ったため、玄蕃頭は神六を討とうとして争いが生じ、政元被官の大平・長塩両氏とともに「牟礼・高西(香西)之一党」が玄蕃頭の宿所へ攻め寄せる。

同年九月九日
細川政元母山名氏、奈良・長谷に参詣する。香西五郎左衛門・同忠兵衛・鴨居元高・行吉ら御供する。

同三年(一四九一)三月三日
細川政元、奥州へ赴く。香西又六・牟礼次郎・同弟新次郎・鴨井藤六ら十四騎が御供する。

同年五月四日
香西五郎左衛門尉、細川政元の使として蔭凉軒を訪れる。

同年八月十四日
将軍足利義材、来る二十七日を期して六角高頼討伐のため近江国に出陣することを決定する。細川政元は二十六日に比叡の辻へ出陣。両香西(又六と五郎左衛門尉)ら八騎は留守衆として在京する。

同年八月十六日
細川政元相国寺徳渓軒を訪問する。香西又六・牟礼若衆二人ら九人座敷に招かれる。

同四年(一四九二)三月十四日
細川政元丹波国へ進発する。牟礼・高西(香西)又六ら少々を伴う。

同年三月二十八日
細川政元被官庄伊豆守元資、備中国において、同国守護細川上総介勝久と戦い敗北する。元資方の香西五郎左衛門尉戦死し、五郎左衛門尉に率いられた讃岐勢の大半も討ち死にした。

同年四月四日
細川政元、奈良・長谷へ参詣する。香西又六・牟礼兄弟ら六騎を伴う。

同年五月四日
香西氏、堺の郡代を勤める。

同年六月十日
牟礼次郎と物部氏とが喧嘩し、香西一党と安富氏は牟礼方に、香川・薬師寺両氏は物部方にそれぞれ味方する。細川政元の成敗により落着する。

明応元年(一四九二)八月四日
香西千寿丸、鴨居美濃守元高の推挙により、妙法院讃岐国香東郡野原荘の年貢を請け負う。翌年二月十日、元高のもとより年貢の残り二千疋が届く。

同年八月十日
香西仲兵衛尉長秋、南御所(室町将軍家の女性で京都・宝鏡寺内の尼寺大慈院へ入った者をいう)の料所讃岐国阿野郡南条山西分の代官職を年貢六五貫文で請け負い、知行分の摂津国島上郡内真上村地頭職を担保とする。

同二年(一四九三)六月十八日
蔭凉軒主のもとを訪れた羽田源左衛門が讃岐国の情勢を伝える。なかに香西氏に関する部分あり。
讃岐国は十三郡なり、六郡は香川これを領するなり、寄子衆亦皆小分限なり、しかりと雖も香川に与し能く相従う者なり、七郡は安富これを領す、国衆大分限の者惟れ多し、しかりと雖も香西党、首として皆各々三昧し、安富に相従わざる者惟れ多きなり、小豆島亦安富これを管すと云々」

同年七月七日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・牟礼次郎ら参加する。

同年八月二十三日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・牟礼次郎ら参加する。

同六年(一四九七)十月
香西又六、幕府より山城守護代に任命され、同月二十五日入部する。


(香川史学第17号 「細川氏内衆香西氏の年譜 ―香西又六の山城守護代就任まで―」 田中健二 大藪典子 より抜粋)