今日考えたこと

得た知識や考えたことのメモをとるのが主目的です

数について

まず、目に見えるモノを人類の視点に基づいて分類することによりモノをグループ化する。次いで、あるグループに属するモノが目の前にある時に、その数量を大雑把に把握・管理するために、自然数あるいは整数が生み出された、と考えられる。

そして、把握・管理するモノの数量の精度を上げるために、有理数が生み出された、と考えられる。この数を可能な限り精密化すれば、所期の目的は達せられるはずであった。

ところがその後、数学理論を構築していく上で必要となった数量(例:直角三角形という仮想図形の斜辺の長さ、真円という仮想図形の円周率、自然対数の底)、言い換えると、現実には存在しない理想化された対象の量を表現するために、無理数が生み出された。

いずれの数も自然界には実在しない、と考えられる。

ルートビール

ROOT BEERという飲み物が米国にある。一度飲んだが、茶色い炭酸飲料でDr.Pepperのような薬っぽい味で、日本人には好まれなさそうだが米国では一定の人気があるそうだ。

本日、見ていた刑事コロンボの「死者の身代金」に、そのROOT BEERが予期せず登場した場面が興味深かった。

犯人とコロンボ警部が、逮捕直前のタイミングでLAの空港の喫茶店に入り、飲み物を注文する際に、コロンボ警部が頼んだのが日本語字幕では「グレープジュース」だった。出てきたものを見るとこげ茶色だったのでおかしいと思って、英語のセリフを聞き直したらROOT BEERという単語が聞き取れた。

何故、日本語ではグレープジュースと訳したのか、非常に疑問に思う。色がとてもグレープには見えない。近い色かもしれないが。
「ROOT BEER」では日本人に理解されないだろうと考えた翻訳者の苦肉の策だったのかもしれない。類似商品である「コーラ」と訳せば問題なかったのでは、と思う。「コーラ」より「グレープジュース」のほうがコロンボ警部らしいということか?その理屈だと原作の「ROOT BEER」がコロンボ警部らしくないことになるので、翻訳による原作の改変による誤解の増幅が起きているのではないだろうか。

蛇足ながら、ROOT BEERをまた飲みたいな、とは思わなかった。

数学は美しくない

代数学幾何学が美しいという意見については、賛成しないまでも言いたいことはなんとなく想像できる。

でも、「解析学は美しい」という意見には、今までの体験による限り賛同できない。

例えば、有名な下記論法のどこが美しいのか?

ε-δ論法

カントール対角線論法

戦国期斯波氏の基礎的考察 を読んで

谷口雄太さんの研究論文を読んで、義満から直臣待遇を受けた甲斐氏が、斯波氏の被官という立場を変えず、戦国時代に入っても斯波氏に忠節であり続けたことを知り、大いに驚いた。と同時に、この論文で描かれる戦国前期の斯波氏の記録は、今まで読んだどんな本にも書いておらず、私にとっては初めて接する情報であり貴重で興味深いと感じた。

斯波氏は一般的に、応仁の乱後急速に衰えて姿を消した、というイメージを持たれていると思うが、この論文によると、複数回にわたって越前や遠江失地回復を試みており、論理的にも心情的にも理解しやすい自然な武士たちの行動が史料から裏付けられている。

谷口さんのお仕事には敬意を表する次第。

数十年前に読んだ時の読後感とは違って、地味な出来事の連続による構成を好ましく感じ、話の流れに破綻の無い緻密な文章で構成された名作だと思った。一部で批判があると聞く、禅寺に修行に入るエピソードに唐突な感じは受けなかった。起承転結の落差が小さいため物語としての魅力には欠けるかもしれない。

それはさておき、この作品の連載が終了した月に、漱石は胃を悪くして何回かの入院を繰り返したらしい。おそらく、虞美人草、抗夫、三四郎、それから、門 と書き続けてきた著者には過大な精神的負担がかかっていたのではないのか、と想像された。直近の「それから」と「門」をあのような緻密な文体で執筆するのに、大きな負担がかかったのではないかと思われてならない。そのせいか、「門」の後のブランクを経て執筆再開した「彼岸過迄」の文体は、人物から距離を置いた、余白の多い、例えば「三四郎」に近い文体で書かれているように感じられる。

昨年12月に、ふと思い立って「彼岸過迄」を読み直し、次いで「坊ちゃん」「三四郎」「草枕」「虞美人草」「二百十日」「野分」「それから」「門」という順序で読んでみたが、「草枕」と「三四郎」が秀作であるという以前からの評価に、揺らぎは起きなかった。

それから

再読してみて、「三四郎」に較べてはるかに緻密な文体で書かれているのに感心する反面、「三四郎」で感じられた余白のある文体による小説世界の広がりや余韻が感じられず、残念に思う。個々の場面と心理描写については興味深く感じたが、一方、全体的な筋の流れが最後の場面へと至る必然性があまり感じられず、悪く言うと作者の恣意的で不自然な誘導があるように感じられ、ともかく、自然な帰結としてのラストシーンとは思えなかった。

おそらく、話の始まりや背景が、整合的に構成されていないということなのではなかろうか。

三四郎」や「草枕」のような余韻のある自然な帰結の作品にはかなわないが、教科書などへの一部抜粋には向いている、とも言える。

また、後期作品の作風の端緒となるような要素が、処々に見受けられると思う。そこもいまいち面白く感じない原因なのかもしれない。