今日考えたこと

得た知識や考えたことのメモをとるのが主目的です

数の分類

数には2種類あると考える。

①対象量管理数(あるいは、自然的数)

これは、整数と有理数のことで、元来は自然界に存在する事物の量を近似的に表すために使用される。

例えば、自然界に存在する事物、例えば動物の数とかリンゴを4つに切った場合に1/4個のリンゴが4つできるとか日数とか、を管理したい場合に使用される。動物も切ったリンゴも日々も、個々の事物の量が正確に同じであることはないので、この場合の量とは近似値だが、自然界に存在する具体的な事物の量を表して何らかの目的に利用するために数字が使用されていることが共通している。

 

仮象量管理数(あるいは、人工的数)

これは、無理数虚数のことで、人工的な事物の量を表すために使用する。

例えば、直角二等辺三角形の斜辺の長さは、二等辺の長さの√2倍になるという場合とか、円周率の大きさとか、自然対数の底の大きさなどのように、人類の頭の中にのみ存在する事物の大きさを表すのに使用される。

誤解を避けるためいちおう説明すると、円とか三角形のような幾何学上の事物は、人類が考え出した事物であり、自然界には存在しない。また、無理数は数直線上に無限個存在するので隙間がない連続性が保証される、という直感的な説明を数学の本でよく見かけるが、数直線は通常は紙の上に印刷や描画されているので、拡大すると穴だらけになり、実際は切れ目がたくさん存在する。

では、どこに隙間のない数直線が存在するのか?それは人類の思考の中に存在する。

言い換えると、仮想的な事物の量を管理するのに、無理数虚数が有用な場合がある。

しかし、自然界の時間や空間の量は、どの数で表すべき量なのか?
実証を抜きにして人々の暗黙の合意に基づいて、時間や空間の大きさを表す量は無理数を含む実数で管理されているのが現状だが、果たして適切な管理なのか。

さらによく考えると、はたして時間や空間は自然界の事物だろうか、という疑問がカントの時代にすでにある。時間も空間も人類が考え出した仮想的事物ではないだろうか。ここは議論が分かれるところではある。

自然現象を数で記述することの問題点

同一種類の存在物の量を管理するために数を適用する、ということは、均一な空間、時間、質量源に対応する量を管理するのに、数で記述する方法が有効である、ことになる。

空間を例にとると、空間とは素粒子物理学によると粒子・反粒子対が頻繁に生成消滅する世界である。そのように変動が激しい場所を均一空間と前提し、波動関数はそのような空間の座標による微分可能であると考えて、有効な記述が可能だろうか?

あるいは、陽子の内部に3個のクォークが存在することが、素粒子実験結果から示唆されているが、陽子の内部空間がそのように複雑な構成であるにもかかわらず、均一空間であると前提し、その空間における波動関数が座標による微分可能である、と考えることで適切な記述が可能だろうか?

科学における数の使用とその背景について

数を数えることは、両手の指を利用することで始まったと言われている。その際の数える対象は、身の回りの仲間や動物や植物などの同一種類に分類されたモノの集まりである、のが自然な考え方であろう。言ってみれば、人類の経済活動にかかわる対象に対して数が適用されていた。経済的対象ならば、貨幣や財など同一種類とみなすモノの集まりの存在が前提としてあり、そのような対象への数の適用に問題は存在しないと考えられる。

つまり数は同一種類のモノの集まりの存在が前提されて初めて適切に使用されるものであり、同一種類かどうか完全な検証が不可能なモノ、の量を管理するのは数には荷が重いのではないかと考えられる。

物理学などの自然科学で使用されている数は、時間や空間などの大きさの尺度として使用されていたり、モノの大きさや重量の尺度などに使用されている。そうすると、時間や空間やモノの大きさや重量などは、同一種類の対象の量を表している、ということが暗黙裡に前提されていることに気づく。つまり、物理学などの自然科学で数が使用されている事実には、その使用前提として、自然界の対象は同一種類の尺度で管理できる、という考えが暗黙の前提として付随する、ということになる。

別の言葉で言うと、同一種類ではない複数の空間や時間や、同一種類でないモノの大きさや重量を、数という道具を媒介にして、統一尺度で管理するという考え方に基づく方法論が背景にあるということになる。

ここでは、複数種類の空間や時間や大きさや重量の存在が、科学者たちの先入観のような常識的判断により暗黙裡に消去あるいは適切に調整された尺度に変換されていることになるが、それは仮説と呼ぶべき判断であり、理論が実験結果と食い違わない限り有効であり続けることになる。

ということは、この仮説が無効になるような現象があれば、数をそのような現象を説明するのに使用するのは有効ではなくなる、ということになる。また、数を使用している科学理論は、同一種類とみなすことのできる空間や時間、同一種類とみなすことのできるモノの大きさや重量のみを対象として扱う、制限付きの理論、ということになる。

現状の物理学を例にとると、この仮説が無効になるかもしれないような場合は発見されていないように見える。そのため、数の、すなわち数学の、自然科学への適用の有効性が否定されるような事態にはなっていない、と思われる。

量と数の差

測定による実測値でも科学理論による予測値でも、結果として得られる量は数によって表される。

一方で、自然界に数は存在しない、数は人類の創造物である、と考える。

よって、自然界の量と数には写像による対応関係が想定される、とすることが自然な考え方である。

数により、精密に自然界の各種の量を表すことができるように感じるのが一般的な感じ方だとは思うが、数であらわされた量と実際の量との間には、以下のように様々な差異が発生すると想定される。

まず、物理的量の実数による表現、という写像により、量を表す人工の道具である数と実際の量との間に差異が発生する。まったく差異が発生しない、と信じるのは楽観的にすぎる、と考える。
そして、量を数とみなして提示された科学理論が使用する関数表現により、また、その理論に内在する仮説性により、重層的に差異が発生する。
また、現象が呈する量に対応して測定器に示される、現象の測定結果として得られる量が、数に変換された値である測定値には、複雑な取得過程を経ることで複合的に差異が発生する。

以上のような、発生源を別にする各種差異を定量的に評価する方法は、測定誤差の統計処理を除き、現実には存在しないように思われる。測定値を数学的に統計処理しても、真の値を提示することはできないので、自然界に真の量があったとしても、科学的方法では最終的な判定が不可能と考えられる。

数が、身近な量を管理するために量と同一視して使用されている状況は、自然の数学化、という言葉がよく言い表しているところだが、上述の各種差異を無くすには困難が伴うと考える。

数学は自然科学ではない

数学の対象は、自然界の事物に触発され形成された「概念」である。

例えば、数、図形、位相、群、などは、自然界に存在せず、いわば自然界に投影された仮想的対象と考えられる。

ゆえに、数学は自然を対象とする「自然科学」ではない、と考える。

自然認識の段階的推移

第一段階では、自然界において利用可能な存在物の属性が数字や図形を通して認識される。長年にわたり継続されることで、その利便性のゆえに自然界の構造と数学的構造の差異は捨象されて自然の数学化が進み、数学的構造が自然の構造と同一視されるようになる。

第二段階では、自然界の存在物の属性を測定する際に、利便性が高いという定評のある数や図形など数学概念に基づく値の提示が慣習化され、測定手順の習熟とともに数学的に表される自然の属性に違和感を感じる人が減り続ける。

並行して、数学化された自然界における現象の規則性についての仮説の構築、測定値による検証と仮説の有効性評価、法則という名の仮説への昇華作業が、現在に至るまで継続している。

 

備考:自然の数学化については、1936年「ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学」(フッサール) が参考可能

数学とは

数学とは、簡単に言うと、量や形象や代数的構造を研究する学問ということになるだろう。

そこで、名称を「形量構造学」と変えれば、本質が伝わるように思う。

「数学」という名称では、数という対象について研究する学問、という一面のみが増幅されて、一般人の数学に対する本質的理解を妨げていることが多いように感じる。